
赤ちゃんと折り紙
切り絵

天国の図書館は、静かな栗の木の森の真ん中にありました。それは水晶でできた睡蓮の城のようなとても大きな建物で、豊かな神の知恵を記した書物を星の数ほども収蔵していました。天使たちは時にその図書館を訪れ、神の知恵や正しい道の行き方を学ぶために、ひと時読書にふけるのでした。
天使カロウェルは、図書館の庭の、青い芥子の花が咲き乱れる花壇のそばで、一冊の書物を読んでいました。それは夜のように暗い表紙をした厚い本で、表紙や背表紙に文字はなく、ただ寂しげな一つの白い星が、表紙の真ん中に穿たれていました。それはまるではてしなく深い闇夜に迷い込んだ、一匹の蛍の光のようでありました。
天使カロウェルは、読み進めていくうちに、深いため息を何度もつきました。それは悲しい本であったからです。神の愛に逆らい、果てしない無知の闇をさまよう、愚か者の魂について書いてあったのです。その愚か者のことを、「悪魔」とも呼ぶと、本には書いてありました。
悪魔とは、堕天使のことではありません。天使は本来堕ちないものだからです。高きものは愛の真実を知っているがゆえに、それを裏切ることはできません。悪魔とは、人間の魂の一種のことでした。それは人間初期のまだはっきりとは愛を知らない幼いころに、自分の欲につまずいて神を裏切ってしまい、それを悔い改めることができず、却って神が悪いのだとうそぶき、悪いことばかりをやるようになり、神の世界に苦悩をまき散らしてきた、過ちの魂のことなのです。
カロウェルの仕事は、その悪魔について研究し、ひとりでも多くの迷える魂を、正しい道に導くことでした。
読み終えると、カロウェルは書物をぱたりと閉じました。すると本の中から、銀色に光る蝶が一頭飛び出してきて、ひらひらとカロウェルの周りを飛びました。それはまるで夜の星が間違って昼に迷い込んできたかのようでした。カロウェルは少し微笑んで蝶に手を差し伸べました。すると蝶はカロウェルの指にとまり、何かを言いたげに翅を閉じたり開いたりしました。
「ああおまえは、わたしを何かにみちびきたいのだね」
カロウェルが蝶に話しかけると、蝶は翅を開いたままぴたりと動かなくなりました。カロウェルは蝶をよく見てみました。するとその翅には、美しい文字で、一つの名前が書いてあったのです。それはある悪魔の名前でした。天国では知らぬもののいない、最も愚かな悪魔の名前だったのです。
「おまえは彼のところを訪れよとわたしにいうのだね」
カロウェルは言いました。そして本を知識の玉にして飲み込むと、深く呼吸をして、翼を広げました。
「行ってみよう。ありがとう蝶よ。神の導きを運んできてくれたのだね」
そういうと蝶はうれしげにはためき、青い芥子の花の中に溶けるように消えていきました。
カロウェルは空に風の窓を開き、地球への入り口を作りました。そしてそこをくぐって、地球へと向かったのです。ある悪魔に会うために。
そのころ地球のあるところでは、広い野外劇場で、コンサートが行われていました。ステージの上では、派手に着飾った男が、ギターを手に歌っていました。客席では大勢の男女が、夢中になって彼を見つめ、うっとりと歌に聞きほれていました。地球上では知らない人のめったにいない、あるスーパースターのコンサートでした。
カロウェルは、人間の若者に姿を変え、こっそりと客席に紛れ込みました。ステージ上の男は金髪の美しい男で、愛に怯える少年の魂の歌を歌っていました。一見すれば、まことにすばらしいアーティストのように思えました。しかしカロウェルにはわかっていました。彼の正体が、悪魔であることを。歌も踊りも美しい姿もすべては嘘だと言うことを。
悪魔は神の蔵から美しいものをいくらでも盗み、それを自分のものにして、豊かな人生を送っているのです。
カロウェルは客席の隅から、誰にも聞こえない声で言いました。
「白きもの、タクナワよ」
それはその悪魔の名前でした。カロウェルがその名をつぶやいた途端、ステージ上の男が、グッと声をつまらせ、血を吐きました。倒れてゆく彼の姿を見て、客席の人々が悲鳴をあげました。カロウェルはそっと小さな声で、「野辺に来なさい」とささやくと、そこから姿を消しました。
カロウェルは翼を広げ、河原の広い草原に来ました。草原には一本の青い楠の木が生えており、カロウェルはそのこずえの上に、つばさをすぼめながら降り立ちました。そして数分ほど待っていると、彼がやってきました。
その姿を見て、カロウェルは憐れを禁じえませんでした。悪魔タクナワは小人のように小さく、黒っぽく、老いていました。片足がよくないらしく、体を不自然に傾けながら、よたよたと歩いてきました。カロウェルは悲し気に彼を見つめました。悪魔タクナワは、楠の梢の上に天使を見つけると、へっと唾を吐いて、へらへらと嗤いました。
「悪魔タクナワよ。その名の意味は白きもの。なぜそう名乗るのですか」
カロウェルは尋ねました。すると悪魔タクナワは、しわの間に挟まれた鼠のような目を見開いて、答えました。
「俺が正しいからだ」
カロウェルは深いため息をつきながら、かぶりを振りました。
「神に逆らって生きることが正しいというのですか」
「そうだとも」
「悪の限りを尽くす迷いの魂よ。あなたは神から盗んだ栄光で、この世のスーパースターになった。誰もがあなたにあこがれる、聖者のごとき善人になった。わたしは知っている。あなたが孤児院に寄付したことを。だがそれはあなたの徳にはならない。なぜならすべては神から盗んだものだからです」
「へっ」
「あなたは陰であらゆる背徳を犯しながら、表はすばらしい善意の人になった。なぜそうするのです。悪が正しいというのなら、堂々と悪になればいいものを。あなたはわざわざ孤児院に寄付して、善人になりたいと願う」
「……」
「もうそろそろ認めなさい。あなたは本当は、神に愛されるよい子になりたいのだ。たとえ嘘でも、そういうものになりたいのだ。だから白きものと名乗る」
「……ちがうね」
「何が違うのですか」
「俺が正しいのだ。神が間違っているのだ。愛なんて絵に描いた餅だ。適当に歌ってやれば人間は俺の言うことを聞く。この世の人間はみな馬鹿ばかりだ。俺が支配してやらなきゃ、つらいことになるんだよ」
それを聞いてカロウェルは、縮めていた翼をばさりと広げました。それは違う、と言いたかったのです。
悪魔タクナワは、カロウェルの白い大きな翼を見て、少しびくりとしました。カロウェルは眉をひそめて言いました。
「神を侮辱してはいけません。あなたは間違っている。この世に生けるものはすべて愛です。神はそのようにすべてのものを創られた。あなた自身も、神によって愛に創られているのです。それを否定してしまえば、あなたはどんどん醜く老いてゆく。自分をそんなものにしているのは、自分自身なのですよ」
「知らないね」
悪魔タクナワは言いました。カロウェルは、小さくため息をついて目を閉じました。これはなんと難しい魂だろう。ただ悔い改め、後ろを振り向くだけでいいのに、それができない。いつまでも幻の楽園を求めて、霧の闇の中を迷い続ける。
「あんたのせいで、あのスーパースターの人生が終わってしまったよ。なかなかにいいもんだったけどな。栄光も名声も思いのままだ。俺の言うことを聞けば、みんないいことにしてやる。あんたもそうしないかい。神の言うことを聞くなんてやめて、俺の言うことを聞けばいい」
カロウェルはもう聞くに堪えないと思い、翼を広げて飛び立ちました。すると悪魔タクナワは、へっへっと笑いながら、天使に向かって唾を吐きました。
カロウェルは虚しさを胸に抱きながら、悪魔とわかれ、天国に帰っていきました。
悪魔タクナワは、遠く飛び去ってゆくカロウェルの姿を見ながら、一瞬寂しそうに笑い、足をひきずりながら、そこを去っていきました。
カロウェルが天国に帰ってくると、あの銀の蝶が、芥子の花から出てきて、彼を迎えました。自分の周りをひらひらと飛ぶ蝶を見ながら、カロウェルは胸を絞って泣きました。何と憐れな魂だろう。胸に繰り返し現れる冷たい孤独を、虚しい栄光と名声で埋めようとしている。彼は永遠にあれで生きていくつもりなのか。それを思うとカロウェルは、悲しくてたまらず、神の名を呼んで愛を請いました。
銀の蝶々が、それにこたえるように、星のようにまたたいて光りました。